歌舞伎保存会の紹介

歌舞伎のはじまり

歌舞伎は江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)、京都で出雲の阿国が歌舞伎踊を踊ったことにはじまり、これを真似て「女歌舞伎」、元服前の少年が踊る「若衆歌舞伎」が流行しました。これらの歌舞伎が幕府から禁止されると再開の嘆願が再三なされ、“歌と踊りを主とせず、台詞と仕草の芝居を行うこと”等を条件に許可された「野郎歌舞伎」がはじまり発展しました。

地芝居

地芝居は、プロではなく素人が演じる芝居のことで、歌舞伎も含まれます。そのはじまりは、江戸時代前期といわれ、江戸時代中期には全国へ広がり、明治に入ると最盛期を迎えました。太平洋戦争を境に地芝居は衰退し、戦後の娯楽の多様化や後継者不足など様々な要因によって、演じられることは少なくなりました。しかし、地芝居を守り伝えようとする機運が徐々に高まり、現在では地芝居の保存振興が全国規模で図られています。

農村舞台

江戸時代、農山村における歌舞伎は、神様への奉納という形でのみ許可され、演じられてきました。その歌舞伎を行う舞台が、農村舞台です。
豊田市内には、82棟もの農村舞台が現存しており、その数は全国随一です。これだけの舞台が残されていることは、とても貴重なことです。これらの舞台は、多くが明治10年代に建てられ、中には18世紀末創建のものもあります。

豊田市域の歌舞伎

豊田市内の歌舞伎は、町方の歌舞伎と村方の歌舞伎とに分けられます。町方は挙母祭りや足助祭りに曵き出される山車の上で、村方は山間の村祭りの奉納芸能として、神社境内の舞台で演じられました。また、「万人講」と称されるセミプロの地芝居愛好者集団の活動が幕末から始まり、小原・旭・藤岡地区に広がっていきました。
太平洋戦争を境に一時衰退した地芝居ですが、地域で伝承していこうとする想いが高まり、昭和の終わりから平成にかけて小原・旭・藤岡・石野で保存会が作られました。旭歌舞伎は令和4年4月で解散、萩野小学校(足助地区)の歌舞伎クラブは令和4年11月をもって活動休止中です。

  • 小原歌舞伎保存会
  • 旭歌舞伎保存会
  • 藤岡歌舞伎
  • 石野歌舞伎保存会
  • 萩野子供歌舞伎